パスカルの葦笛のブログ

クラシック音楽のテレビやFMの放送からその演奏を視覚(楽譜)で再現します。後から読むだけでどんな演奏だったか理解出来ます。

久保田早紀「異邦人」とケテルビー「ペルシャの市にて」

NHKテレビの「日本人のおなまえ」で、1979年に大ヒットした久保田早紀の「異邦人」の裏話が紹介されていた。副題が「中央線からシルクロード」とあり、歌手の久保田早紀はホークソングの一種として日常の中央線あたりの生活を歌いあげたものだったが、レコード・プロデューサーの酒井政利に見出されて、シルクロードと結びつけられた。それが大ヒットの秘密だったという話だ。


40年前には、ケテルビーの「ペルシャの市にて」はセミ・クラシックと呼ばれた軽いクラシック音楽の名曲として楽しまれていた。


二つの異質性を結びつけた意外性がうけた。序奏部と本歌とは真逆で、まあ真水と海水の合流した所に魚が多いといわれているように、大量の魚が食いついた。


街に流行していた頃、序奏のメロディーはケテルビーの「ペルシャの市にて」に啓発された音楽だなという印象を受けたが、それは間違いがなかったわけだ。それを意図してこの曲に結合した。


さて、ここからが本題で、ブラームスの1番もやはり同様の同工異曲だったと言いたい。



ブラームス交響曲1番第一楽章。冒頭の序奏部8小節である。


いわば久保田早紀の「異邦人」で言えば、ケテルビーの「ペルシャの市」に当たる部分だ。
ブラームスは第一楽章の作曲に満足できなくて、悩んでいた。何か足りない。


最終的に出来たのが8小節にも及ぶテインパニの連打であった。


ある本によれば、ブラームスの自筆譜は次の頁からの断片からが残っていて、序奏部のテインパニ連打は最初の作曲には無かった。


苦悩して苦悩して書いては破り捨て書いては破り捨て、行き着いた末が、テインパニ連打の構想で、この部分の自筆譜は残っていない。本体とは関係のないお客を一瞬にして掴むインパクトを本体に結合した。


その凄まじい商魂というか芸術家の怨念が、冒頭の序奏であった。レコードを売るという凄まじい執念と相通じるものがあろう。